[2]岩崎重義氏の足跡

越した技能と類まれな指導力を併せ持つ『世界の鍛冶職人イワサキ』の半生
(1)父の理論と実践の二人三脚
昭和8年 父 岩崎航介 母 振子の長男として神奈川県横須賀市に生まれる。
昭和10年 同県逗子市に転居
昭和20年4月 私立逗子開成中学に入学
同年5月 父の郷里 三条に疎開 、県立三条中学へ編入
戦後の教育課程の移り変わりの最中を中学、高校と学ぶ。
昭和23年 父航介氏2度目の胃潰瘍で危篤状態になり、同時に生活苦が続く。
昭和26年 県立三条高校卒業。
貧困の最中、家畜を飼う技術の将来性を考え、東京の養鶏所に就職するが、同年9月卵と豚肉の大暴落でリストラに遇う。

その後、三条と東京の金物問屋筋の情報収集と技術収集も請負っていた父の仕事を手伝うようになる。
父が文芸春秋に寄稿した随筆「玉鋼(たまはがね)」が通産省の目に止まり、補助金申請のための膨大な提出書類を不眠不休の末、父と二人三脚でまとめ上げる。重義氏回想して曰く、「あの頃の通産省はスタッフも若く、貧しい所にある研究に陽の目を当てようとする意気込みがあったのでありがたかった。」
昭和27年通産省より『玉鋼を使用した優秀打刃物の製法』に対し技術研究補助金60万円の交付を受ける。知人の応援もあって設備を借り受け、補助金を基に鍛冶場をつくった。
国民金融公庫の資金を借りて30万円もする金属組織写真の撮れるカメラ付きマイクロビッカース硬度計を購入。「良し悪しの判断をするには機械設備にも勝って重要なもの」という父航介氏の考えであった。
理論的な研究は父航介氏が担当し、実践的な鍛冶技術は重義氏が腕の良い職人さんの外弟子となって技術を習得し、昭和29年 父子による理論と実践の二人三脚で、玉鋼を使用したゾーリンゲンに負けない西洋剃刀の開発に成功する。

◆昭和38年頃の三条製作所のスタッフ◆
写真の上にマウスカーソルを重ねるとスタッフ名を表示します
短期間の内に高度の鍛冶技術を会得した重義氏であるが、新潟市の名刀匠長島宗則氏を初め、新潟、東京、兵庫と腕の立つ名工の外弟子として教わった、口では言い表せない“ワザ”と、父航介氏の金属顕微鏡や硬度計を使っての研究を土台とした科学技術の融合が、今日、「世界の鍛冶職人イワサキ」と言わしめる基礎を作り上げたといっても過言ではないだろう。

昭和33年 幼なじみの佐藤文子と結婚
昭和36年 水落良市氏、飯塚解房氏を迎え、弟二人と妹と合わせ、父、重義氏を含め7人体制で西洋剃刀、和剃刀の生産を本格化する。飯塚氏は後に独立して、『重房』を名乗り、日本屈指の庖丁鍛冶となる。

(2)父航介氏の死と経営者としての苦悩

昭和38年 父航介氏は直腸癌を患い、重義氏が製造のみでなく剃刀の販売から弟子たちへの技術指導、経営管理に至るまで一人でこなさなければならなくなってきた。


世はまさに高度成長期の真っ最中、景気が良くなったことにより、若い男性は理容業よりもっと割の良い仕事につくようになり男性理容師が激減した。

剃刀の砥げない女性理容師が増え、理髪店は使い捨ての安全剃刀でお客様に対応するところが増え、昔からの和・洋剃刀が売れなくなってしまった。ライバルのドイツ製の剃刀でさえ売れなくなってしまった。
月600丁の生産能力がありながら、3ヶ月で販売量は従来の半分に、次の3ヶ月では何と10%と一気に売上が減り、経営が立ち行かなくなってきた。

重義氏曰く「あの頃は自転車操業なんかではなく一輪車操業だった。」

やむなく弟一人を残して一旦社員とは別れ、再出発を図る。

商品転換を図ろうと、農家の接木用小刀や切り出し、そして客先からの要望に 合わせて作る、いわゆる刃物の誂え注文も請けるようになっていった。

その後まもなく、昭和42年8月、癌再発のため、父航介氏他界する。享年64歳。

 岩崎航介氏のこの早すぎた死は岩崎家のみならず、三条刃物業界にとっても大きな痛手となる損失ではあったが、同時に又、後継者である岩崎重義氏のたぐいまれな指導力が、その後の三条刃物業界の技術向上に大きく貢献することへの新たなる始まりでもあった。

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